月さえも眠る夜〜闇をいだく天使〜

9.リュミエールの館にて



「疲れていらしゃるようですね。」
優しい声がかけられる。
アンジェリークが振り向いてみると、気遣うようでいて、それでも優美な笑みをたたえた水の守護聖が立っていた。
「そう、ですか?自覚はないんですけど、そういえば、あまり眠っていないかもしれませんね……」
というより、眠れないのだ。
夜の闇は、昼間忙しさに紛れていれば思い出さずに済む光景を思い出させる。
任務で訪れる数々の惑星で、幾度経験しても、けして慣れることの出来ない光景。
人々の恐怖、絶望、辺りに満ちる血と、死の匂い。
そして、それはすべてあの夜につながるのだ。
初めて、「死」と言うものを実感した、あの月のない夜に。
これ以上なく平穏な聖地にあって、いや、だからこそ一層にその光景は残酷なまでに鮮やかさを増す。
「今更、『死』など恐くないですから」
以前、そう、同僚に言った言葉は嘘ではない。
彼女が恐れるとしたら、それは浅い眠りから目が覚めた時。
あの光景は夢ではなく、自分はこれからも独り生きていかなければ『ならない』と思い知らされる瞬間であった。

眠っていない、という彼女にリュミエールは悲しそうな顔で、
「自分を、大切にしなければいけませんよ」
と言う。
『身体』でなく、『自分』と言う辺りに、アンジェリークの心情を察している水の守護聖の本心が伺えた。
彼と仲が良いとは言えない炎の守護聖が全く同じ事を言っていたことを知ったら、どう思うだろう?
アンジェリークはそう思い、心で苦笑した。
「そうですね。今度、お暇な時にでも、ハープをきかせてください。子守り歌なんか、効きそうじゃないですか?」
アンジェリークはそう微笑みながら、悲しい顔をさせてしまって、ごめんなさい、と心のなかでつぶやいた。
このどこまでも優しい人の悲しい顔は、女王候補の頃にロザリアと話していた『できるならお目にかかりたくない、守護聖様の表情ランキング』で、 『青筋ジュリアス様』を凌いでトップになった表情である。

リュミエールも微笑みを取り戻して言う。
「喜んで。今日もこの後、私の館でクラヴィス様にお聞かせする予定だったのです。
あなたさえよければ、私の館までこれからいらっしゃいませんか?夕食も、ご一緒しましょう」
職務はすでに、終了している。
「そうですね、お言葉に甘えます。じゃあ、このあいだ行った惑星のおいしいお酒があるんです。
それを持っていきますから、待っていて下さい」
そういうと、彼女は自分の執務室へと小走りにかけていった。

◇◆◇◆◇

「リュミエール様も、クラヴィス様も、お酒お強いんですね〜」
自分の持ってきた酒で酔いが回ってきたアンジェリークはきゃらきゃらと楽しそうに笑っている。
少し、はしゃぎ気味、と言ってもいい。
「リュミエールは、『ざる』だからな。酔った所はみたことがない……」
そういうクラヴィスも、グラスを軽く空けながら、普段と別段変わった様子も見えない。
「あはは〜。さすが、『水』系にはつよいんですね」
アンジェリークの言葉に、リュミエールもつい、
「おかげで、いつも飲み会では最後まで素面で、酔っ払いの面倒をみるはめになります」
と、苦笑する。そして、でも、酔わない訳ではないのですよ。と、付け足した。
「じゃあ、クラヴィス様も、酔っ払っちゃったりするんですか?」
リュミエールも、そう言えば、みたことがありませんね。という風にクラヴィスへ視線を向ける。
コメントを期待された闇の守護聖は、ふっ、と口の端をあげて笑うと、
「以前、ある人が言っていた。極上の酔いをもたらす酒はこの世に星ほど存在するが、酔える心の持ち主が少ない、とな」
真に心地よい酔いは、飲む人の心がもたらすのだと。
前任の夢の守護聖と緑の守護聖は笑いながら言っていた。
彼らは、いつだって、華や紅葉を酒の肴に陽気な酒を楽しんでいた。
「そういう意味で……アンジェリーク、おまえは今、本当に酔っているのか」
アンジェリークの顔から明るい、はしゃいだ笑みが消える。
反対に、クラヴィスからはくつくつと、喉の奥から乾いた笑いが零れて響いた。
ぞくりとするほど、冷たい笑い。
でもそれは、クラヴィス自身に向けられた笑いだったのかもしれない。
クラヴィスが言葉を続ける。
「先の任務先でも、大変だったようだな。だが」
アンジェリークが息を呑む。
「自分が誰かを救えるなどと、……はじめから思わぬことだな」
リュミエールか慌てたようにクラヴィスへと目を向け、その視線をアンジェリークに向け直す。
どんなにか傷ついているだろうか、と思った彼女の表情は意外にも穏やかで、笑みさえ浮かべていた。
しかし、少し、悲しげな。
「そうですね。そう思います」
皮肉でも、自嘲でもなく、本心でアンジェリークはそう言った。
そう。私が誰かを救えるなんて、思い上がってはいけない。
自分は無力だ。でも、それでも私はなにかがしたい。救えなかった、命の変わりに。
もし、これが、かつての女王候補だった頃の自分に、いや、セリオーンを失う前の自分に向けられた言葉だったなら。
この言葉に、傷つき、悲しみ、怒りさえも覚えたかもしれない。
そして、それを告げた闇の守護聖に反感を禁じ得なかったであろう。
でも今は、表情のないアメジストの瞳の奥に、アンジェリークに対して真実を告げただけの
―― 考え方如何では、かなり不器用ななぐさめにさえとれる。
そんな、優しさに似たものを何故か、感じていた。
クラヴィスの真意を察したらしいアンジェリークに、ほっとため息をついたリュミエール。
そしてクラヴィスが言う。
「何か、弾いてはくれぬか」

静かに、ハープの旋律が流れ出す。
リュミエールは考えていた。
どんな優しさでさえ、傷ついた魂を癒すことはそうそう簡単なことではない。
もし、このふたつの魂 ―― 愛しい人を失うことで傷ついたふたつの魂を救うことができるものがあるとしたらそれは
それは、このふたり、互いに他ならないのではないか、と。

ハープの優しい音色が流れる中、聖地の夜は静かに更けていった。


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